大阪万博にカラヴァッジョの「キリストの埋葬」が来日している。数年前にローマで作品を見ていなければ大阪万博に見に出かけたかもしれないが幸いなことに行く必要はない。それに、大阪万博に興味がないと言うこともあるし、カラヴァッジョの作品が展示されているイタリア館は最も人気が高く予約が難しいそうだ。
カラヴァッジョは昔から好きな画家の1人である。フェルメール巡礼がほぼ終わったこともあり、カラヴァッジョ巡礼を始めている。まずローマに行ったのは最も好きな作品である「マタイの召命」など主要の作品がローマにあるからだ。
カラヴァッジョは、ミケランジェロのようにフレスコで描かなかった。それは、彼の技法は「下絵を描かず、直接カンヴァスに描き始め、必要に応じて何度も描き直す」というものだったからだそうだ。この方法は、乾燥前の漆喰に一発勝負で描くフレスコ画には適していない。フレスコ画は漆喰が乾く前に素早く描き上げる必要があり、修正がほとんどできない。一方、油彩画は乾燥が遅く、筆致や色彩の調整、重ね塗りが容易だ。だから、何度も修正するために教会の壁画もキャンバスに描いたと言われている。だから、今回の大阪万博の来日のようなことも可能だ。とは言いつつも、「キリストの埋葬」のような主要な作品が来日したのは万博だったからなのだろう。
カラヴァッジョは劇的な光と影の対比(キアロスクーロ)と生々しいまでのリアリズムで有名だ。その中でも、1602年から1604年にかけて制作された「キリストの埋葬」は、カラヴァッジョ芸術の頂点を示す傑作の一つであることは間違いない。
この作品を見る時に、その圧倒的な画面構成と、あたかも現実の出来事を目撃しているかのような錯覚に陥るほどのリアリズムに息を呑む。
画面は、斜めに横たわるキリストの亡骸を中心に、それを取り巻く人物たちの悲痛な表情と動きによって構成されている。右肩上がりの対角線上に配置された人物群は、力強い動きを生み出し、視線を自然とキリストの顔、そしてその下に広がる暗い墓穴へと導く。この計算され尽くしたリーディングラインの構図は、単なる視覚的効果に留まらず、物語の緊張感を高めている。
カラヴァッジョの代名詞ともいえるキアロスクーロは、この作品においても極めて効果的に用いられている。暗闇の中からスポットライトを浴びたかのように浮かび上がる人物たちは、その肉体や感情を際立たせ、まさに劇の一場面を切り取ったかのようだ。
キリストの青白い肌、聖母マリアの深い悲しみの顔、マグダラのマリアの慟哭、そして亡骸を抱えるニコデモとヨハネの力強い腕。これら全てが、強烈な光と深い影のコントラストによって提示される。さらに特徴的なのは、この作品においては色彩は抑制され、茶色、赤、そして人物たちの肌の色といった限られた色調が、作品全体の厳粛で重厚な雰囲気を生み出していることだ。
カラヴァッジョは、聖書の物語を現実の出来事として捉え、登場人物たちに一般の庶民をモデルとして採用していたことで知られる。中には聖女のモデルが娼婦だったとも言われる。このことで、宗教画に新たなリアリティと感情移入をもたらしたのだろう。
そのようなアプローチから、「キリストの埋葬」でも、ありのままの人間の姿、剥き出しの感情を描き出すことに成功している。ヨハネの若々しくも悲痛な表情、年老いた聖母マリアの皺の刻まれた顔、そして何よりも、力なく横たわるキリストの亡骸の生々しさ。そこには、神々しさとともに、死すべき人間の苦悩が描写される。
カラヴァッジョの「キリストの埋葬」は、単なる宗教画の枠を超え、人間の苦悩、そして死という普遍的なテーマを、観る者の心に深く訴える作品だ。その圧倒的な存在感と、そこに凝縮された人間のドラマを、万博の会場のような雑踏で見ずに済んだことは、なんという幸せか。ただし、多くのカラヴァッジョの作品が教会の礼拝堂での展示(?)のために、正面から見るのが難しいということもあるのだが、それは仕方のないことだ。