正義について

by Shogo

飛行機の中でカマラ・ハリスのスピーチを読んでいていて、目頭が熱くなってきた。それは、以下のようなくだりだ。

“In our system of justice, we believe that a harm against any one of us is a harm against all of us. That’s why when we file a case, it’s not filed in the name of the victim. It reads: ‘the people.’”

「私たちの司法制度では、私たちのうちの誰かに対する危害は、私たち全員に対する危害であると信じています。だからこそ、私たちが訴訟を起こすときは、被害者の名前で起こすのではなく、『国民』の名前で起こすのです。」

Kamala Harris

朝から公平や、もっと広く言えば「正義」についての長い議論をしていた。当然のように、出席者全員が同じような価値観を持つわけではない。そんなことで、もやもやした気分で読んだから、余計に心を動かされたのかもしれない。

あるいは、私の身の回りの些細な出来事の正義ではなく、この国の「正義」について考えてしまったから、余計にこの一節に反応したのかもしれない。

「訴訟は被害者ではなく『国民』の名において起こされる」という言葉は、司法制度の根幹にある重要な理念を浮き彫りにしているようだ。それは、個人の被害は社会全体の被害であり、その回復は社会全体の責任であるという考え方だ。

確かに、カマラ・ハリスが言うように、社会における犯罪や不正行為は直接的な被害者だけでなく、社会全体の秩序や安全を脅かす。「国民」の名において訴訟を起こすことは、この正義の追求を社会全体で担うことを意味する。それが司法制度の意味なのだ。

だが、この国では、そのような司法制度が機能しているのだろうか。果たして犯罪や不正行為は社会全体への被害と見做されているのだろうか。例えば最近の政治資金の裏金に伴う司法の決着は、そのような社会全体へ犯罪として裁かれたのだろうか。曖昧な決着で、社会全体のモラルハザードを生み出しただけなのではないだろうか。

特定の人だけに当てはまる法律が存在するように見えてしまうような司法制度は、結果的に社会全体の秩序や安全を脅かすということにつながる。そして、誰も司法制度を信じなくなる。それが、どのような結末につながるのか考えていないのだろうか。

本当に、今や誰も司法制度を信じてはいない。この国の司法制度は、適用がその都度の判断で変わり、行為者が誰であるかによっても変わると思っていないだろうか。そのような司法制度を持つ国は秩序を維持できるのだろうか。もっと言えば、そのような意識を持つようになった国民は幸せと言えるだろうか。

もちろん、カマラ・ハリスの言葉は、大統領選挙において、自らの検事としてのバックグラウンドを強調するためのものであり、アメリカで、そのような理念を元に全ての司法制度が完全に機能しているのかは知らない。だが、それでも、それを言葉に出して言える政治家がいるということだけでも日本とは違う。

彼女の言葉から、司法制度のあるべき姿は、「国民」の名において正義を追求する理念を実現することにあるという表現を初めて知った。だが、自然に腹落ちする。司法制度は、社会全体の利益を守るために、公正かつ透明性の高い手続きを確保することであると言うことは、言われてみればその通りだ。それを、この国では青臭い正義感や夢物語として語り続けるのだろうか。

今のような社会で、一人ひとりが、次世代の若者が、社会の一員としての責任を自覚し、正義の実現に向けて積極的に参加することができるのだろうか。今の状況が続くと国と社会の終わりにつながるような気がしてならない。

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