東日本大震災から10年。あの大災害の日がまたやってきた。自宅にいると、めったに使われない、地元のPAシステムからサイレンが鳴り響き、防災訓練のアナウンスがあった。3月11日は地元の防災の日となっているようだ。
3月11日は、東京でも激しく揺れ、交通機関が全て止まった。徒歩で娘を迎えに行き自宅に帰った事は、先日も書いた通りだが、問題はその後だった。
あの年の3月11日は金曜だったので、翌12日は休日だった。今でもよく覚えているが、よく晴れた真っ青の空の日だった。近所の公園まで犬を連れて散歩に行き、そこで木蓮の大きな蕾を見ていた。
話は、少し変わるが、その木蓮はあの年以降、毎年大震災の日前後に注意して見ているが、たいていは白い花を咲かしている。暖冬なのか、地球温暖化か、わからないが、その花の咲く時期は3月11日よりも早くなってきているようだ。
話を戻すと、真っ青な空の木蓮のふくらんだつぼみを見て、大災害のことを考えていた。多くの人が亡くなった、その時点ではまだ規模不明だったが、大災害のことを考えていた。それは、ある意味終わった災害として考えていたのだった。
しかし実は、翌週になる本当の恐怖がやってきた。計画停電など始まり、街が暗いと言う事だけではなく、原子力発電所の爆発に伴う放射能の恐怖が目の前にあった。
後の検証でも、福島を中心にして大量の放射能が広い範囲にばらまかれたことがわかっている。ヴィム・ヴェンダースの写真集に、撮影時にフィルムが放射能により感光した写真が収められている。見えない放射能が、東京を含む東日本に漂っていたのだ。
3月11日の翌週では、まだ事態の深刻さ不明でも、原子力発電所の事故が拡大する恐怖が、つねにあった。広い範囲に大量の放射能が放出されて、東日本一帯が人の住めない地になるのではという恐怖だ。
その頃は計画停電や計画運休のために会社からは自宅待機を求められて出社しない日があった。多くの人は放射能の恐怖に怯えながら、ニュースで福島の原子力発電所の事故の対応を見守っていた。一度放射能が撒き散らされば、10万年はそれが消えないこともその時に知った。
東京含めた日本の広い範囲が無人の地になるかもしれないと言う悪夢のような恐怖が毎日襲ってくる。
最終的には、その悪夢は現実化しなかったわけだが、その後の検証によれば、奇跡が起こり、日本を救ったと言うことがわかっている。決して政府や東京電力の事故対応により救われたわけではないと言う。
日本人は、原子力と言う持ってはいけない力で火遊びをしていたと言うことなのだろう。その後しばらくは、原子力発電のすべて廃止すると言う議論が起こり一時はその方向に行くかと思われたが、また原子力発電所依存に逆戻りしてしまった。
原子力発電のコストが安いと言う理由のようだが、福島で毎日発生する大量の汚染水の処理や、今後の廃炉の作業などを考えるとそのコストは膨大で、決してコストが安いとは言えないはずなのだが、不思議だ。
日本では2021年1月現在で9基の原子力発電の炉が稼働している。稼働中の炉は、福井県、佐賀県、鹿児島県、愛媛県にある。この稼働中の炉に対して、地震やその他災害、テロに対してどのような対策がとられているのかよく知らないが、10年前に言い訳のように使われた「想定外」という言葉をまた持ち出さないような万全の対策がとられていることを祈るのみだ。
あの大震災で2万人以上の人がなくなり、まだ行方不明の人もたくさんいる。しかし本当の災害は、原子力発電所の事故だ。そのために故郷を失った人がたくさんいることを忘れてはならないし、これを教訓にして同じことを繰り返してはいけない。すべての原子力発電所は廃炉にすべきだと思うが現実にはそうなっていない。
10年たっても福島には強い放射能が残っている。救いは、最近の朝日新聞の報道により、その放射能はがんを引き起こすほどの強さではないと言うことがわかったことだ。
10年と言うのは短い気もするが、長い時間である。2011年以降の夏はなるべくエアコンを使わないで過ごしてきたが、何年か経った頃から、また夏にエアコンを使う生活に戻って、何事もなかったように原子力発電所で使われたかもし作られたかもしれない電気を使って生活している。