ポール・トーマス・アンダーソンとウェス・アンダーソン

by Shogo

ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の「One Battle After Another」をようやく見に行くことができた。広島で、かつ平日の昼間と言うこともあり自分も含めて6人しかいないと言う寂しい環境だった。しばらく前に見たウェス・アンダーソンの「The Phoenician Scheme」は休日で東京と言うこともあり満員と言うほどのことでもないが適度に客が入っていたのと対照的だ。どちらも好きな映画監督で見る前から期待していたがどちらも期待通りに満足だった

2本の映画は、監督の作風を反映しているために、どちらも強い個性を持ちながら、映画としては素晴らしい出来だ。だが映画をどう見せるかの土台がまったく違う。「One Battle After Another」は動きとリズムで観客の感覚に働きかけるタイプで、広角画面と主観的な近い視点を行き来し、不協和を含む音楽で緊張を押し上げる動感主導の映画だ。 いっぽう「The Phoenician Scheme」は、ウェス・アンダーソンらしい、色彩、シンメトリー、美術の作り込み、ほぼ定点に近い構図で画面の秩序を前に出す静止主導の映画で、動きはあくまで整えられた枠の中に置かれる。

このように対極的な映画でありながら、共通点もある。ベニチオ・デル・トロが重要な役割で出ていることだ。「One Battle After Another」では、重要な脇役で、「The Phoenician Scheme」では主役だ。

「One Battle After Another」での、デル・トロは、単なる脇役以上の機能を担う。彼が演じるセンスイ・セルヒオはトマス・ピンチョンの描く政治的暴力と情報過多の物語に象徴的な役割を果たす。デル・トロの身体は、後半のスピード感のあるシーンにおいて、広角と主観を往復し、照明のノイズやトンネルの光を過剰に取り込みながら、追跡と監視の中を自由に動き回る。そのリズミカルな動きが、この映画の特徴を体現しているように感じた。

デル・トロは、主人公のデカプリオを助けながら、カメラの速度変化や被写界深度の変化に合わせ、呼吸や重心のズレでシーンの中心になる。特に、逮捕された時のダンスは、この俳優の才能を明確にしていた。彼の身振りは、暴力を嘲笑し、笑いを誘う。これらのシーンでは、彼こそがこの映画のリズムを形作ったと言えそうだ。

これに対し、ウェス・アンダーソンの「The Phoenician Scheme」では、真逆だ。ここではデル・トロは、ウェス・アンダーソンの色彩と対称構図、美術デザインの中心に位置し、その重心となる存在だ。この映画は、アンダーソン監督の他の映画と同様に、画面内の均衡と反復によって意味を形成し、俳優の動きを最小化することで、肉体の存在を強調する。デル・トロの静的な演技、微笑や目線のわずかな動きは、場面全体にストーリーではなく、美術的・造形的緊張を生み出す。言い換えれば、PTAが俳優の身体でリズムを表現し、アンダーソンは俳優の存在を様式の秩序へ封じ込めているようだ。それが、この二人の監督の持ち味だ。両者ともデル・トロの演技の違う面を引き出している。PTAはリズムと混乱、アンダーソンは静止と様式だ。

音楽の扱いも異なる。PTAとグリーンウッド音楽監督は、リズムで映画を組み立て、ノイズで意味を生み出す。デル・トロの演技は、その不協和の谷間で世界の不安定さを強調する。一方、アンダーソンの音楽は、画面の様式を聴覚で補強し、俳優の沈黙に意味を与える。デル・トロの沈黙は、秩序の中の声なき声に聞こえる。

2つの作品が同時期に公開され、どちらもデル・トロが主要登場人物であったことは幸運だ。このことから、私たちは、この二人にの偉大な映画監督の作品をより深く楽しみ、理解することができた。PTAはピンチョンの助けを得て混沌を語り、アンダーソンは静的な様式美を語っていた。そして、2作品中のデル・トロが、その演技力で二人の監督の映画芸術の性格を際立たせた。

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