銀座で昔の上司とランチをした後で、やっと「イニシェリン島の精霊」を見に行った。この1ヶ月、行こうと思いながら、毎日予定があるので先延ばしにしているうちに、とうとう東京でも上映している映画館は数少なくなってしまった。ランチは銀座だったので、日比谷シャンテで、まだ上映されていたので良かった。
「スリー・ビルボード」のマーティン・マクドナーが監督した映画だからが、見たいと思っていた理由の一つだ。やはり評判も良く、すでにアカデミー賞でも多くの部門にノミネートされている。地味と言えば、地味なので、含蓄があるとは言え「スリー・ビルボード」と同様に受賞は難しいかもしれない。
映画の舞台になるのはアイルランドの西側の沖にあるアラン諸島に設定されている架空のイニシェリン島。アラン諸島の島のどこかで撮影が行われたのだろう。
映画を見ていて思うのはまずアイルランドの島の光の美しさだ。アラン諸島より西には大きな陸地はもうない。大西洋からの光の反射も含めて光が美しい。そして、アラン諸島の有名な石垣が蜘蛛の巣のように張り巡らされている景色も、自然の厳しさを想像させるとともに、島の人たちの生きるための、たゆまぬ努力を見せつけている。
監督・脚本のマクドナーは両親がアイルランド人と言うことでアイルランドの人々の暮らしや歴史についてはよく知っているのだろう。そして、小さな島の暮らしぶりについても、良さも悪さもよくわかっている。主役の1人のパドリックの妹、シボーンが、郵便局を兼ねている店に郵便物を受け取りに行くと、封が開けられていると言うシーンがあった。小さなコミュニティーは、そのようなプライバシーを配慮すると言うようなこともなく、非常に密接な人間関係がんじがらめになっているのだろう。
この美しい島で、音楽家のコルムは、飲み友達のパドリックに、ある日突然絶交を言い渡す。パドリックは訳がわからず、コルムにその意味を訊ねて、交友を復活させようと努力をするが、うまくいかず話はとんでもないことになる。
コルムは絶縁の理由を、無駄に人生を過ごしたくないと言うことを理由に挙げる。酒を飲んで無駄話をしているのではなく、残り少ない人生の中で意味のあることをしたいのだと主張する。それが、彼の場合は作曲で、「イニシェリン島の精霊」という新しい曲を作曲中だと告げる。意味のあることをして何か残したいというコルムの気持ちは、もはや老齢の私にも共感できる部分がある。これは、人の良い、しかし、あまり頭脳が明晰でないパドリックには理解できないことだった。
コルムの家の装飾には、様々な文化の工芸品が使われ、音楽家のコルムが島の外の暮らしが長かったことを伺わせる。パドリックの家の素朴さとは対照的で、二人の、これまでの暮らしや育ちが大きく違うことも描かれる。
一方的な絶縁がきっかけで2人の関係は大きく変わっていく。時代設定は1920年代で、アイルランドでは内戦が行われ、島から見えるアイルランド本島では爆発が見えたり銃声が聞こえたりしている。背景としてそのような内戦が描かれるのは、このコルムとパドリックの関係が親しい友人から、さしたる意味もなく敵対的関係になるあたりに、人間の本質を描こうとしているようだ。島の警察官は、本土の内戦のことなど気にせず、どちらかの死刑執行の立ち会いに本土に行って、タダの食事と日当が支給されることを嬉しそうに語る。これも、また人間の本質の一つだ。
人間の社会では、意味もなくそして明確な説明もできないまま争い事に発展すると言うようなことがある。歴史的、文化的、宗教的、人種的など様々な理由があるのかもしれないが、それは結果的なことで、コルムのようにある日突然絶交して、パドリックがそれに激しく反発するというような争いもある。映画の設定ではアイルランドの内戦だが、ウクライナで戦争が行われている今、見るとまた別の意味を考える。
コルムとパドリック以外の主要な登場人物は、パトリックの妹のシボーンと、発達障害のドミニクだ。ドミニクは、コルムとの関係の回復について相談する相手として登場して、映画の緊張を和らげる役割を果たしている。
そして、障害があってもパドリックほど単純でないドミニクは、パトリックの妹、シボーンに告白をする。年齢もずいぶん離れていることもあり、シボーンは、はっきりと拒絶する。ここはかなり痛々しい。二人の気持ちがよく分かるからだ。この後で、ドミニクは水死体で発見され、明確にはされないが自殺したことが想像される。
この映画の中で重要な役割を果たしているのは、妹のシボーンだ。2人は7年前に両親が亡くなった後、一緒に暮らしている。多少、知的に問題のある兄のパドリックと違い、本土の図書館から仕事のオファーもある。だが、問題のある兄の面倒みなければいけないと言う責任感のために島を離れることができなかったのだろう。島を出て自由に生きたいと言う葛藤の中で毎日暮らしているので、夜ベッドの中で泣くシーンもある。
だが、その辺の彼女の内面は多く描かれることもない。良い映画や小説は多くを語らない。写真のようにすべてを語らずとも多くの意味を持つ形式がある。対して動画は全てを語るために結局は何も語っていない。この映画は、多くを語っていないゆえに、多くの意味を持つ。写真のような映画と言えるのかもしれない。
この映画を見に行ったのは、マーティン・マクドナー監督の映画と言うだけではなくアイルランドが舞台になっていると言うことがある。全編にアイルランドの音楽が流れ、アラン諸島の風景が美しい。8年前にダブリンに2度行ったが、ダブリンより外には出ていない。その時に、アイルランドの人はアイルランドの西側海岸の美しさをほめたたえていた。いつかアラン諸島のあるアイルランドの西側に行ってみたいものだと思っていた。この映画を見て、彼らの言葉の正しさを改めて感じさせられた。