誰でも何に対しても好みというものがある。食べ物なら辛い物がすきとか、甘い物がすきとか。異性に対する好みも千差万別だ。一人一人好みが違うので商品のバリエーションも豊富に用意されているのが普通だ。ただ、ペンタックスの100色のカラーバリエーションはやり過ぎとおもうが。
写真についても同じで、カラーならどのような色味でプリントするか、モノクロならどんなコントラストで、どれくらいの濃度でプリントするか。 選択は無限にあり作者にその選択は任されている。これが人によって実に千差万別だ。カラーの場合には記憶色という言葉がある。現実とは違うかもしれないが記憶された色味ということだ。こうなってくると、オルテガだったかが言った三人の自分みたいな話になる。人が思う自分、自分が思う自分、本当の自分の三つの自分が存在するということだが、世界を感覚を通してしか認識しないのだから、記憶色ではない現実の色とか本当の自分とかが本当に存在するのか疑わしい。
自分の目を通して見た世界の色や光は、人の感覚で認識しているのだから、人間の数だけ見え方に違いがあるはずだし、ましてや写真を現実の複製として撮っていないとしたら、その表現の幅はかなり大きい。森山大道さんの高いコントラストで白と黒しか無い世界や、 中藤毅彦さんのざらざらとした粒子の荒い世界や、トミオ・セイケさんのしっとりとしたグレーの中間色の世界や、あげれば切りがないが様々の表現がある。
自分の撮ったネガをどの様にプリントするかを考えると、世界がどのように見えていたかは考えない。記憶色の再現ではなく、どのように見えて欲しいかでプリントするのだと思うが、コントラストと濃度を変えてテストを繰り返すことになるが、好みはほぼ似通ってくる。もちろんそこにたどりつく前に撮影時にそのように撮ってあることが大事だ。
土曜日にプリントしたもののアドバスを貰いに行ったのだが、改めて見てみると自分の好みはごく普通だなと感じた。たまたま見せて貰った他の写真には独自の世界観があったような気がした。好みは色々だが、大衆的な好みと独自な好みもあるのも事実だ。自分の好みは大衆的ということかもしれない。あるいは、花鳥風月という言葉に当てはまるのか。
ただ、これが本当に自分のものかというと、趣味や嗜好は環境によって教育されたり学習されただけで、本当に自分の好みかどうかも疑った方が良いかも知れない。歴史が教えるように国家や宗教による教育は人間を別のものに変える力がある。それほど意図がなくとも、文化やメディアへの接触で特定の好みを助長する環境もある。その意味では、好みは自分のものではなく社会のものだろう。
もう一つ、気がついたのは好みには、分かりやすさということも影響する気がする。例えばモネの睡蓮の画とバーネット・ニューマンの線の画がどちらが好みかと聞かれればモネを答える方が多いと思うが、これは分かりやすさかもしれない。同じように三好和義の楽園のきれいな写真と杉本博司の「海景」ではどうだろうか。どう考えても、 三好和義のほうが分かり易いかもしれない。ただ自分で書いて、多くの人がどちらを好みというか自信がない。この分かりやすさは、好みと関係があるかどうか自分で書き始めて自信がなくなった。
ただ、好みにも自分が勝手に考えている好みもある。食べず嫌いというやつだ。自分では絶対買わないようなネクタイを人から貰って数度締めるうちに、それが好きになるということもある。なので一度嫌いなコントラストと濃度でプリントしてみるかなと思った。自分で自分を殻に閉じ込める必要はない。大抵の場合、自分を閉じ込めて一歩踏み出さないのは、大抵は自分の思い込みの趣味嗜好だけだったりする。