「アンドレアス・グルスキー」展

by Shogo

新国立美術館に「アンドレアス・グルスキー」展を見に行った。基本的には好きなタイプの写真家なのだが、最近はデジタルだということと、「ラインII」が4億円以上で落札されたことであまりにも有名になってしまったので天の邪鬼的性格からは反発を感じることもあるが、ともかく見ておかなければという義務感で出かけた。

言ってみてすごいということと、こんなものかという両方を感じた。個人的な好みではベッヒャー派の写真は好きで グルスキーの写真も好きな種類の写真であるが、作品としての「ラインII」は好きでも、それがデジタルで加工されたものであるということで気分が萎えてしまう。でも考えてみれば出来上がった作品が好みというのに、作るプロセスが違うからと拒否するのもおかしな話だ。

写真の定義をどうとらえるかだが、カメラを入力装置として使った作品を写真としてとらえれば問題ない。アナログフィルムで撮ってプリントするといことをやっていると、デジタルで加工された写真を否定したくなる。だが、写真の定義は変わっていくものだろう。アナログの写真も常に当時の科学技術を適用して利用しながら発展してきたものだから、発明された当時の方法以外は認めないという狭量というものだろう。

グルスキーの作品の特徴は、その緻密さと巨大さだが、今回展示された「ラインII」 があまりに小さい、と言っても他の人なら普通の大きさだが、ちょっと拍子抜け。有名になったあの作品をわざと小さい作品でしか展示しなかったことから、今回の展示をグルスキーが「ラインII」の名声に寄りかかりたくなかった姿勢がうかがわれる。細部の緻密さを全体の抽象性に見せるにはあのサイズが必要なのかもしれないが、あまりにも大きすぎると思う。そこは、アートとしては大きい方が売れるということもあるらしい。

巨大さも緻密さも、初期の作品はフィルムで作っていたから限界があったのだろうが、デジタルになってたくさんの画像をスティッチングすることで可能になった。その意味では、やりたいことがあって可能な技術を利用しているということも言える。私のように安いからという理由でモノクロフィルムで撮って、アナログでプリントしてという写真とは方向性が逆だ。

使っているカメラはアルパ12という中版カメラで中版のデジタルバックを使っているそうだが、それよりも撮った写真をパソコンで編集してという作業がすごそうだ。とても手間と言う意味でも足元にも及ばない時間がかかっているはずだ。

写真としてベッヒャー派のような情念をそぎ落とした乾いた世界が好きだ。グルスキーもその流れに位置づけられる作家だ。その流れの写真はたいてい好きだ。私の撮る写真は良く模様にしか見えないということを言われる。模様のように撮って、具体的な被写体は避けたいと思っている。レベルは違うが、グルスキーは個別の精緻な部分が全体で模様に見えるように写真を作っているように見える。特に最近の衛星写真とかバンコク川の写真は好きだ。あの抽象化されたような画像があの大きさで迫ってくるので、あれを見るためだけに足を運んだ意味はあった。

図録が3500円もして迷ったがバンコクの写真が今後も見られるということで高価な図録を買って帰ってきた。

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