渡部さとるさんが写真という表現形式について発言していることは、前に書いたが、チョートクタナカさんもたまたま、ブログで写真ついて書かれているのを読んだ。
チョートクさんのそのブログで三回にわたってフォトジェニックについて書かれている。ここでいうフォトジェニックとはチョウトクさんの言葉で、一般的な「フォトジェニック」ではなく、自身の表現の写真として成立するかということを言っているのだと思う。
そのブログの中で、ご自身の写真のいくつかについて、「ステレオタイプの風景」とか「泰西名画めいた一般向けの風景」として否定的に書かれている。いわゆるフォトジェニックなきれいな写真を否定して、そうでない種類の写真を「フォトジェニック」として評価している。つまり、前からあるようなきれいな写真については評価できず、今までになかった新しい価値を付け加えることができる写真を評価したいということだと思う。
写真という表現形式は、生まれてから200年近くが経ち、たくさんの作品を生みだしてきている。その歴史の中でも写真の表現の主流は何度も変わってきた。19世紀から20世紀の初めにかけてピクトリアリズムという表現が流行したが、これは絵画のような写真を志向していた。つまり見たものが見たままに写るということでは、我慢できず表現としては絵画のような写真を作っていた人たちが多かったようだ。おもしろいのは19世紀初めに写真が生まれて、できるだけ精緻にありのままに描くことを目指した画家たちが、見たまま写る写真とは違う方向を志向して、マチスのような野獣派とかモネのような印象派が生まれたと同じように写真の側からは絵画に近づこうとしたのある。
特に面白いのは画家になろうとしたアジェが絵画の素材として撮ったパリの街角の写真が、後にシュールレアリストに評価されて正面からあまり加工せずに写した写真が評価されたことはレディメイドとの関連で興味深い。写真はそのまま単に写せば被写体を紹介するだけのレディメイドに近いということだ。それでもアジェは今の私たちが撮るようなショウウインドウの写りこみや変わった構図などの写真も撮っていて何の技術や技巧を織り込まなかったということでもない。
その後、さまざまな流行や技巧があるが基本的にはストレート写真の時代が続いている。それが変わり始めたのはデジタルによってさまざまな加工が可能になったことだ。数年前の高木こずえさんの木村伊兵得衛賞の受賞はその大きな変化の生み出した結果だ。その前提には写真はデジタルで、スマホとネットにより無限に近い写真が世界を覆い尽くす現在における写真の意味の変化がある。
何千万、何億というイメージの攻撃にさらされ、しかもそれぞれは美しく魅力的でだからこそそれに影響されてしまうが、それでも自分にしか見えない世界をカメラを使って作り出せなければ写真とは言えないとチョートクさんは言っているのだと思う。どこかで見た典型的なイメージは一瞬にして消費され、後に何も残さず、それを見たことにより自らの生も死にも思いは至らない。そういうことを言っているのかもしれない。
チョウトクさんは、こうも言っている。「あたしが数十年来、標的にしているのはこういう都会と都会でない所の境界線上に意図せずに放置されてそのままになっている風景なのだ。そこに写真の面白さがある。」
これは渡部さんの発言に通じる気がする。新たな世界を見出して提示することによって、私たちは何事かを考え始める。それは現在の問題でも良いし、自らの生でも、楽しかった瞬間でも良いし、父母のことでも良い。そんな誰も見ていない風景を見ることができるかどうかはきっと個人の資質で渡部さんとかチョートクさんとかその他の写真家は出来るのだろうと思う。