宮門口市場 #3

by elmarit
日曜日から寒くなり,しばらくはコートも手袋も必要だろう。天気は良くてこの数日は青空だ。でもニュースでは相変わらず日本の不況のことを伝えている。テレビに言われなくても十分に認識している。中国は4兆元(50兆円以上)の景気刺激投資で経済を立て直すと言っていて、こちらの人はみんな楽観しているようだが、日本にはそんな楽観のかけらもない。
 
魯迅記念館を出て、宮門口というエリアを歩いている。北京に来てから、古い胡同を歩くのが好きだ。まるで日本の下町や田舎の街を歩いているような気がしてくる。日本もこんな時代があった。
 
 
しかし、古い街並みは北京でも失われて、古いコミュニティが壊されていく。かつて日本を捕らえた西洋型の資本主義の渦は中国をも飲み込んで、 アメリカと同じような生活が理想となる。中国ではさらに日本より激しい競争資本主義として、日本では見られないほどの富裕層も生み出した。
 
バブルの時代の広告に「欲しいものが欲しいわ」というのがあったが、次から次へと人々の物への欲望をかきたてなければいけないのが、戦後の日本やアメリカ型の消費社会の病だ。
 
 
中国や日本にはそうではない生活と社会があったような気もする。失われたものをユートピアと考えているだけかも知れないが、かつては東洋型の消費社会を前提としない暮らしぶりがあったはずだ。私だって新しくて便利なものは好きだ。今のシステムをすべて壊せと言うのではない。でも、かつての貧しい日本には、貧しいだけでない豊かな部分もあったのではないだろうか。でも、戦後の高度経済成長がもたらした繁栄はそんな「豊かさ」を意識から消した。次から次へと欲望を作り出して、物を買わせて捨てさせて、売り上げを上げていかなければならないような現在の経済システムは、幸せの定義を変えたと思う。
 
北京の市場で見る生活、日本にもあった生活、きれいなスーパーで買い物をしないかも知れないがある意味豊かそうな生活。今の普通の日本人には貧しく写るかもしれない生活。どちらが本当に豊かなのか。北京の市場には人々の暮らしがあり、それは豊かだ。豊かというのは人間が地に足をつけて生きる豊かさだ。今回の経済危機が過去100年ほど続いてきたシステムや考え方を見直すきっかけかも知れないと思う。
 
高級な車に乗って、古い町から高層マンションに引っ越して家の中に物を溢れさせて、中国も日本と同じ道を歩み出しているが、本当にそれでいいのか。中国型や日本型の豊かな生活を考えることも必要かもしれないし、そして何より幸せの定義をもう一度考えてみるべきだろう。 物の量で測るのではない幸せの定義を。世界経済は日本も中国も鎖国させてくれないし、孤立する必要はないが、国として国民の生活のあり方や国としての豊かさを長期的な視点から考え直さなければならない。アメリカでも中国でもない日本と日本人はどうやって生きていくのか。誰か考えてくれていますか。
 
 
北京に来た当初、日本との違いに戸惑って悲しい気持ちになったけれど、今は北京の街に見るのは日本の姿だ。北京で日本を見る。それは日本にあるものが中国のものだからだ。日本では、アメリカを目指してアメリカと同じ生活様式や文化を目指してきたが、まだ日本的なものも残されている。その残されている日本的なものの多くはかつて中国から学んだり伝えられたものなのだ。
 
 
言葉が出来ないことは置いておいても、中国のことをあまりよく知らないことに自分でも驚く。学校で習う世界史はヨーロッパを中心に欧米的な世界観で歴史をみるので、日本の歴史が分からなくなる。世界史と日本史があるのはどうしてだろう。日本を中心とした世界の歴史を「歴史」という授業で学ぶべきだった。そうすれば中国と日本の関係がもっと良く理解できたのではないだろうか。
 
 
今とは違う生活のあり方、環境にもやさしい物質至上主義ではない幸福の定義、消費欲望加速装置ではない経済システム。使いにくいVISTAをXPにダウングレードするように、本当に必要でないものを引き算する勇気を持って、もう一度アメリカ至上主義や生活・経済システムを考え直すということを すべきなような気がする。日本は巨大なアメリカや中国と同じようには生きてはいけない。
 
そして私にはとりあえず、そこそこのデジカメとフィルムカメラを残してくれればいいですから。
 
この項終わり
 

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