ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の「One Battle After Another」は、まさに今のアメリカを鏡に映したかのような傑作だ。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で19世紀資本主義の暴力的誕生を、「マグノリア」で20世紀末の断片的群像を描いたPTAが、今回取り上げるのは、アメリカの病理の、あるいはアメリカだけではないが、21世紀を特徴づける分断や情報過多だ。
いま米国では、移民排除を軸にした政策や国境の軍事化が加速し、社会の分断は拍車をかけられている。「One Battle After Another」が描く、追われ、監視される人々と終わりなき対立は、この映画の空気と不気味な合致を見せる。
原案はトマス・ピンチョンの長篇「ヴァインランド(Vineland)」。PTAは2014年の「インヒアレント・ヴァイス」に続き、ピンチョンを取り上げた。だが今回は映画化ではない。「Inspired by the novel “Vineland”」という表記が示すように、アンダーソンはピンチョンの政治風刺と語りを素材にしつつ、それを彼自身の家族論と映画の言語で再構築している。ピンチョンが描いた冷戦後の監視国家と老いゆく革命家の記憶は、ここでSNS時代の情報戦と分断を背景にし、父と子というテーマになっている。
今朝読んだ記事では、興行的には失敗となりそうで、場合によっては150億円もの赤字が見込まれているそうだ。確かに、先日見た時には、映画館に自分も含めて六人しかいなかった。PTAが監督で、レオナルド・ディカプリオやショーン・ペンが出演するこの作品が興行的に振るわないというのは予想もできなかった。興行とは難しいものだ。「Blade Runner」を公開時に見た時のことを思い出す。今はもうない東銀座の巨大な松竹の劇場に1ダース程度の人しかいなかった。
脱線したが、この物語の焦点は、南カリフォルニアの元革命家ボブ・ファーガソン(レオナルド・ディカプリオ)が、疎遠になった娘ウィラ(チェイス・インフィニティ)と共に過去の戦いの悪夢に追いかけられる闘争と反撃だ。ボブの敵はショーン・ペン演じるロックジョウ大佐。カリカチュアされた喜劇的な人物造形が印象的だ。同じように、ディカプリオのボブも絵に描いたようなダメ親父だ。喜劇的な舞台の中で、チェイス・インフィニティのウィラは15歳だが対照的に勇敢で強い意思を持った人物として描かれる。
映画は、アクション、コメディ、スリラー、風刺劇が交錯し、上映時間2時間50分もの長さだ。2時間30分を超える映画は基本的には劇場には見に行かないようにしているが、PTAだけは例外だ。
中盤のカーチェイスは、劇場で見る映画の興奮の典型的なものだった。息もつかせない映画の魅力が一杯だ。迫りくる道路と緊張感のある音楽。1960年代以来ほとんど使われていなかったというVistaVision方式による映像が、逃走劇をダイナミックなスケールで描き出す。
この映像を支えるのが、グリーンウッドによる音楽だ。ピアノの連打、不協和な弦、金属的な打楽器、それらがまるで時間を刻む時計のように鳴り響く。旋律は次第に崩壊し、リズムは意味を失う。
先に述べたように主役級の三人の演技に加えて、ベニチオ・デル・トロ扮するセンスイ・セルヒオが作品に深みと映画の幅をもたらす。唐突にダンスを踊る彼の身振りは、暴力を笑い飛ばすかのようだ。
ストーリーは線的ではない。現在と過去が交錯する。ウィラとボブは同じ時間軸での共演が少なく、その距離が映画全体の緊張を持続させる。緊迫の現在、過去の出来事、その反復が、編集の割込みで行き来し、記憶・政治・親子・理想と現実が重ね合わされる。移民政策や分断に対する反体制運動と政府が衝突する構図の中で、PTAは正義や抵抗という言葉の意味を見出そうとする
しかし、多層的テーマの過剰さは弱点でもある。政治批判、家族、アイデンティティ、抵抗など多くの視点が錯綜し、どの線も徹底的には掘り下げられていないかもしれない。それが、この映画の興行成績に反映されているのだろう。どれかに絞った方が興行的には良いのかもしれないが、それでは、この映画の良さを殺してしまうというのが個人的な意見だ。
ピンチョンの作品との関係を考えると、「inspired」は主に四つの軸に表れる。第一に、監視・権力・抵抗の三角関係を親子関係に仮託する設計。第二に、断片と語りの構成主義。第三に、カリカチュア化とリアリズムの往復による風刺。第四に、象徴の明示化(武器、車・道、偽名、移民問題)である。他方で、PTAはアクション性を強化し、劇的をなアクションシーンを前面化することで、文学的表現を映画的な表現へと翻訳した。ここに「inspired」の意味があるのだろう。
この映画は、アメリカと世界が持つ分断と混乱、情報の過多を見つめている。 PTAは、その環境に中で、戦い続けろと言っているのかもしれない。それは、タイトルの意味であり、最後のシーンで反体制運動に参加するために家を出てゆくウィラの清々しさだ。
