ゲルハルト・リヒター展

by Shogo

ようやく国立近代美術館のリヒター展を見に行ってきた。存命のアーティストとしては、最も高名かもしれないリヒターの東京での、初めての大規模個展と言うことで期待していた。結論から言うと、大規模な個展は間違いないが、この多作のアーティストの作品数が少なく、今までネットなどを通じて見ている作品やシリーズが展示されていなかったので、やや不完全燃焼感が残った。

確かに回顧展ではなかった。それでも、重要なシリーズが展示されているので、羊頭狗肉と言うわけではない。それに今回は目玉と言うべきホロコーストをテーマとした「ビルケナウ」がアーティストの意図した通り完全に展示されており、大規模な個展ではあることは間違いない。たまたま自分の知っているいくつかの作品が展示されていなかったよと言う事だけだ。

リヒターと言えば、抽象画とフォトペインティングとオーバーペインティッド・フォトとガラスと鏡の作品が思い浮かぶ。実際には、今回も展示されているが具象の作品も発表しているし フォトペインティングのようにぼかしているとは言え、写真とそっくりに書く筆力もある。表現の形式として、様々な手法をとっている、多作かつ多手法のアーティストだ。

個人的なリヒターへの関心は、モダンアートのアーティストというよりは、写真を使ったアーティストだったからだ。19世紀に写真が生まれて以降、絵画は写実表現から離れ、ついには抽象画まで行き着いた。その二つのジャンルは影響しあっても交わることはなかった。その絵画と写真を融合したアーティストとして興味を惹かれたのだ。

デジタル技術の登場で、デジタル加工・編集されたものが写真であるのか写真でないのかと言う議論があった。つまり写真は現実を対象として定着して、手を触れてはいけないという意見が多くあった。デジタルで加工する事は絵画に近づくから、写真ではなくなってしまうという考えだ。

絵画か写真かと言う二元論は明確で、それぞれの立場での固定的な考えが一般的にはある。たまたま絵画は古い歴史があり、その後、写真が登場してこの2つの芸術のジャンルは、お互いに影響を与えながらも、双方がその壁を築いてそこから出なかったと言うことだ。

デジタル画像編集が一般的になって、徐々に壁は崩れつつある。また、この数年は、アウトプットされた写真の物質性に注目し、その写真の物質そのものの加工という表現形式も生まれてきている。

それは、写真は21世紀に入って、その表現に限界が出てきたときに、行き詰まりの打開方法として、デジタル編集技術を使って加工を行ったり、あるいは出力された素材を加工して、ものとしての写真を表現方法として使うようになったのだろう。

今となっては、二次元で何かを表現するという目的が同じで、それを写真なのか絵画で行う手法の問題という理解が進んできている。しかし、リヒターは、それを50年も前に行っていたということに驚く。

今回の展示の解説で知ったのは、東ドイツから西ドイツに移住したリヒターは、共産主義の芸術の束縛から、自由な西側での創作を行う際に、あまりに自由で、できるだけ主観を排するために、フォトペインティングを始めたということだった。絵画なら、線の一本から主観と想像から作らなければならないが、写真を元に描くなら主観もあらゆる情報も排除できるからということだったということのようだ。これは、まさに絵画版「自由からの逃走」だ。しかも面白いのは、写真を、ぼかしながら絵画にして、それを写真に撮って作品にするという手法だ。写真と絵画の壁の意識が全く無いのが、時代から超越していた。

期待して行って少し残念だったのは、アウシュビッツの写真を元に描かれた抽象画の「ビルケナウ」は、よく目を凝らして見ても、完全に元の写真のイメージが見えないこと。これなら、見えないものが描かれていることを外部に発表しなくても良さそうなものだ。ある意味、ブランド・コミュニケーションに過ぎない。もう少し、原型が見えるものと思っていた。

今まで知らなくて良かったのは、最後に展示されていた、鉛筆のドローイング作品。昨年描かれたものらしいが、墨絵のようで好きだ。

このようなことも含めて、買ってきた、分厚い図録を読めば、いくつかの疑問も解消するのかもしれない。

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