ドーハの勝利

by Shogo

ドーハとくると、「ドーハの悲劇」と続くのが私たちの世代の認識だ。もう20年近くも前の話だ。あのロスタイムでの失点でワールドカップ出場が消えた。がっくりとピッチに倒れ込む選手たち。夢を掴みかけた瞬間の悪夢。

といってもそれを実際に見たのはしばらく後だった。当時はアメリカにいたからテレビの中継がなく、東京から電話でテレビ放送の実況中継をしてもらって、それを聞いていた。その瞬間、言葉が途切れた。

しかし、昨夜以降はその言葉も変わるのだろう、ドーハと言えば、ドーハの勝利とかドーハの優勝とかドーハの歓喜とか、新しい言葉が生まれた。

昨夜のゴールも長友選手のパスを決めた李選手のプレーは、かつての日本代表のプレーには見られなかったような気がする。しかし、ゴールを決めたシュートも良かったが、それ以上にすごいのは長友選手のあのパス。あの場面に関わらず、試合の後半でも素晴らしいスピードで駆け上がる彼のプレーに、胸のももやもやも何もかも洗い流されるほどの爽快さを感じているのは私だけでは無いだろう。もちろん、今回の優勝は誰の貢献と言うよりチーム全員のものであることは間違いないが、いくつかのすごいプレーが印象に残っている。

言葉の使われ方は一つの出来事で変わってしまう。もうドーハに続くのはもう悲劇ではない。同じように、昨夜の同窓会でも話題になったが、新しい生き方、新しい社会のあり方が問われている。今のままでは国は滅びるということをみんな言っていた。危機感は誰もが共有している。チュニジアやエジプトのような形で現れていないだけだ。かつてとはまったく違う、新しい国や社会、私たちの生き方が 必要だ。

同級生も年をとりそれぞれ昔とは同じではないが国や社会を憂うことはそう変わってはいない。それ以上に高齢になられた恩師も、世界を日本を私たちの生き方・生活を変えることの重要性を何度もおっしゃったことが胸に残る。世界と日本とか生き方とか政治とか、私たちの知っている意味や定義ではない新しい意味が必要な転回点にあるのだ。では、何をすれば良いのだろう。答えは無いし、小さなことから始めようと思う以外はおもいつかない。

同窓会から予定通り、12時前には帰宅。サッカーで家中が盛り上がったが、エルはいつも通り12時には寝てしまった。そのため、いつも通り6時には起きて大きな物音を立てる。仕方ないので、睡眠不足のまま起き出してコーヒーを飲んでいるのだが、不思議に疲労感はない。旧友と近況と昔を語り、帰って「ドーハの優勝」だったからかもしれない。今日は少しプリントして、写真を見てもらいに行こうかどいうか迷っている。

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