言葉の意味とネット民主主義

by Shogo

寒くて天気の良い週末になった。家族のイベントがあるので昨日から付き合っている。疲れたのは疲れたが、遅い日の翌朝ほどエルが早起きというエルの法則は、今朝も有効でまた5時半に起こされてしまった。

今朝、PCを立ち上げてブログを見て驚いたのは、昨日の記事に畠山直哉さんご本人からコメントを頂いていたこと。愚考に対してご丁寧なコメントを頂いた。コメントを読ませていただいて、もちろん変な誤解をしていた訳ではないが、コメントからあの写真展に込められた写真家の考えをもう少し知って、より写真展が好きになった気がする。

言葉は難しいもので人によっても意味が違うことがあるが、それが外国語ならなおさらだ。そもそも言葉は透明の箱のようなもで、単なる音に過ぎない。それに色をつけたり中身を入れるのは習慣であったり文化であったり宗教だ。例えば犬とdogは重なっている部分があっても同じではない。日本の中でも犬が同じ意味に使われているかどうかしらない。でもいつも外国語の訳語を一個用意してそれをそのまま使ってしまうのが普通だ。naturalは日本語になっているから英語を習った時にも辞書を開いたことがない。それで引いてみようと手元のCobuildを取り出した。naturalの意味が9個あげられていた。

最初の意味は、驚きsurprisingでないことという意味の形容詞。誰かの行動がnaturalということは、その状況では合理的というような場合だ。2番目は、 先天的なもの、基準から外れていないこと、abnormalでないという意味の形容詞。Naturalな行動とは、多くの人やその種類の動物に共有されていることであり、学習で得られた行動ではないということ。3番目は、直感的、本能的なという意味の形容詞。naturalな能力とは持って生まれたものだということ。4番目は、名詞で、誰かがnaturalという時は、その人がそのことをうまく簡単にできる人だということを言っている。5番目は、本物で嘘っぽくないという意味の形容詞。誰かの行動が、naturalという時は、リラックスしていて何も隠していないように見えるという意味。6番目は一番簡単で人工ではないという意味の形容詞。7番目は、実の親という時の血のつながったという意味の形容詞。8番目は音符がnaturalという時の形容詞と名詞。シャープでもフラットでもないという意味。9番目は、句で使われる場合。natural causesで死んだという場合には事故や暴力で死んだのではなく、病死か老衰という意味ということだ。

ここに書いたことも辞書を私が解釈したことだから意味が少し違っているかもしれない。それに辞書というのは、死んだ言葉の安置所だから生きている言葉ではない。辞書的には6番目の意味の人工物でない、つまり自然のが今回の畠山さんの使われたnaturalのようだ。ただし、畠山さんの使い方が一般的かどうかは辞書では分からない。

どちらにせよ言葉にどう意味を持たせて表現するかはアーティストの特権だと思うので、それが正しいか正しくないかを問うのも栓のないことだ。畠山さんのお書きのように「尖った」表現で、それまでないものを作り出して提示するのがアーティストの仕事だろう。その意味で畠山さんは新しい言葉を必要としていたのだと思う。ここでいう新しい言葉は一般的な用法ではないという意味だ。

良い例が思い浮かばないが、Appleが「Think diffrent」のキャンペーンをやったときに文法的に違和感を感じるのでネイティブの友人に確認したところ、文法的に間違いと言えば間違いだが広告の表現としてあえて使っているのだろうということだった。それに文法が常に正しいというものでもないだろうとも思う。大統領だって文法的におかしなしゃべり方をする。特にオバマ大統領はいくつかそういう指摘を受けている。

要は伝えたいことが伝わるかということなのだろうと思う。今までに無い内容、概念を伝えるためには新しい言葉が必要ということは多い。今回の場合にでもより一般的なStories of the natureであれば理科の教科書的な説明的なタイトルで、新しいものはなにもない。Natural Storiesということで、作品の世界観にあった「尖った」タイトルにされようということなのだとようやく理解した。

でも、ApppleのThink differentと同じことを日系企業が行ったら文法的に間違っていると指摘される可能性は大きいと思う。ネイティブでないからが理由だ。ネイティブでない人が一般的ではない言葉の使い方をしたら、間違っているとか、そういう誤解をされる可能性は高い。今回の私のように全く的外れな指摘をする、よく分かっていないお節介な人が多く現れるはずだ。

それから、畠山さんにコメントを頂いて思ったのはネット社会の民主的なことだ。私のようなヘボアマチュアが書いたことに高名な写真家のご本人からコメントを頂ける。昔はマスメディアしかなく、一方通行だから、強者に対して反論権というものが議論されたが、今はネット上では誰でも1個のIPアドレスで同じように発言できる。

それを最初に思ったのは、10年以上前の東芝クレーマー事件だが、巨大企業に対して、アッキーさんという一人の個人がネットを使って声を上げて対抗することができた時だ。ネット上では誰でも1票が実現できる。畠山さんのコメントとは何の関係もないのだが、畠山さんのような有名な写真家が、私のような泡沫ブロガーにまでコメントをいただけたのでちょっと興奮している。ネット社会の良い一面に出会った朝だ。

でも、ネット社会のもう一つの側面は無法地帯だということ。コメントを頂いた畠山直哉を名乗る人物が本人という保証もないのが、ネット社会の怖いところだ。今回の場合には、書かれている内容からしてご本人以外には書けないと思われるので、その心配はなさそうだ。

ともかく、畠山さん、生意気な書き方になって失礼いたしました。特に意図があったわけではなく、写真展があまり素晴らしくて感動したことと、タイトルの言葉に少し違和感を感じたというだけです。Natural Historyから連想されたタイトルということでよく分かりました。そう思うと写真の世界をもう一度見たくなりました。今日は予定があっていけないので来週末にでも、もう一度行っててみます。もう一度、ご説明ありがとうございました。

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