昨年初めから続けてきたことが先週で一段落。一つの終わりが来たようだ。だが、これで終わりという訳ではなく、同じようにまた続けるか、別の形で始めるか考えなければいけない。多分、一年ほどの間にもだんだん変わってきた点もあるから、同じように続けるのは難しいかもしれない。好むと好まざるに関わらず、昨日と同じことは少ない。だが、一度終りと区切りをつけるのは大事なことだ。そこから、また始めよう。とはいえ、何をどのように始めるか考え中。
散歩の途中のモクレンの花は、桜の花が咲き始めると主役交代で散っている。すべてのことに始まりがあって終わりがある。花も木も、一日も一年も人生も。三月の末には退職する人の送別会があって、何度もさようならを言った。4月1日には新年度で新しい人が入ってきて挨拶した。すべてのことに始まりがあって終わりがある。
3月11日には誰も予期しない形でいくつものことが終った。たくさんの人の人生が予期しない形で、いきなり終った。終らされた。続けたいこと、始めたいこと、また会いたい人、将来会うかもしれない人。夕方が来ることを知っていても、午後早く一日が終らされたら。蕾のままで枯れてしまったら。
今回の災害のような大きな力や病気、事故。人の終わりの形は色々だが、一つだけ確かなことは「必ず来る」ということ、不確かなことは「いつ」かということ。
採算の良くない会社の経営に関わっていた時、そのアメリカ人の会計士は言った。「今のところ大丈夫だが、エンパイアステイトビルのてっぺんから飛び降りたみたいなようなものだ。今はまだ落ちているだけだが、その内、地面に激突する」
すべてに始まりがあって終わりがあるが、原子力発電や環境破壊が人類の生きる地球を人の住めない星に人類の終わりにしないことを祈る。今回の問題で福島第一原発の周辺が人の住めなくなることや、その放射性物質が日本を含む周辺の海にばらまかれていることを考えると、いまのような暮らしを続けると、すべてのことの終わりがくるような恐怖を感じる。
その意味で地面が近づいている。単なる今年のモクレンの花の終わりで、また一年待てば新しい花を見られる終わりではなく、すべての終わり。 放射能の恐怖はそんな終わりを連想させる。