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やっと週末。今日の土曜日はバレンタインデーだ。昨夜は花束を抱えた女性を数人ほど見かけた。中国ではアメリカなどと同じように、男性が女性にプレゼントや花を贈ったりする。というか日本の習慣がちょっと違っている。
バレンタインデーにも縁のない私はどこに散歩に行こうか。 夕方には友人が北京に来るので、今日も夜遊びだ。また体重が増えそうだ。
魯迅記念館を出た後、その周辺を少し歩いた。魯迅記念館は西城区にあり、最寄り駅は阜成門。このエリアはタクシーで通ったことはあっても歩いたことは無かった。魯迅記念館を出て、阜成門内大街を少し東に歩くと商店街があった。宮門口市場という名前は勝手に私がつけただけで、実際は宮門口東チャと宮門口西チャ(チャは上に分を書いて下に山)というX字型の路地に店が並んでいる。そんな名前はないが、そう呼んでおく。
このエリアの住人の日常の買い物の場所らしく活気がある。魯迅が住んだ時代にも同じように商店街があったのだろうか。こういう場所はそうは変わらないので同じようなお店がきっと並んでいたのだろう。 何度か行っている前門の南の市場に比べて規模は小さいが地元の商店街という感じが好感がもてる通りだ。
私の大学時代の友人は第二外国語で始めた中国語と、そして魯迅に魅せられて、大学卒業後に再度、文学部に学士入学して、中国文学を専門的に学び始めた。ある時期、魯迅のことばかり話していたのを思い出す。
当時の中国は今の将軍様の国のように鎖国状態の不気味な感じのする国家であった。むしろアメリカ的世界観からすれば世界の最大の不安定要因であっただろう。
後の90年代にニューヨークに住んだ時代に知り合った中国系の人々、台湾や香港出身の人たちは中国本土は石器時代にあると語っていた。 そしてなりより、その時代は天安門の事件の直後だった。
文革の混乱からトウ小平の改革開放が現実的になるまでは、中国は政治的にも混乱していたし経済的にも困窮して、中国の人々の暮らしは楽ではなかっただろう。民主主義と敵対する全体主義国家、国民の権利や生活を考慮しない国家。私にとってそういう国は遠くて遠い国だった。自分の人生設計や趣味嗜好とは別世界だったのだ。
だから魯迅に傾倒する友人の話が理解できなかった。彼は繰り返し繰り返し魯迅や中国について語ってきかせてくれたが、私の興味をまったく引かなかった。私にとって中国とは地上の最果てにあり、私の人生と決して交じり合わない国だったからだ。
子供の頃からアメリカのテレビを見て、アメリカの音楽を聴いて、アメリカの本を読み、アメリカの食べ物を食べて、アメリカの生活に憧れて育ってきた。 私が特殊ではなくみんな同じようなものだと思う。アメリカ一辺倒はその時代には、受け入れるしかない当たり前のことだった。冷戦のために利用する必要があったとは言え、アメリカが日本に政治的にも経済的にも援助を惜しまなかったことが、戦後の日本の繁栄の要因であることは誰も否定できないであろう。
英語を学び、英語の練習をしてアメリカ人の様に発音できない自分を呪った。アメリカが世界に続く入り口であり、アメリカ英語が世界語と信じていた。
この項続く しばらく魯迅記念館周辺の写真が続きます。