天安門

by Shogo

北京には目に見えない中心線が引かれており、それは天安門から故宮を通って、オリンピック・スタジアムいわゆる鳥の巣まで貫いている。もちろん鳥の巣が建設されたのは近年なので北京の建設時には故宮のを中心として都が建築されてた。

朝貢を行う海外の使節は、やはり中心線上の前門を通って天安門を抜けて皇帝に謁見した。 元の時代の北京は「大都」と呼ばれ、故宮は現在の場所よりやや北にあり、現在の故宮のすぐ北側にある景山公園に故宮があったそうだが、すこし南にずれただけで、中心線は大きくは動いていない。マルコ・ポーロもこの中心線を通って皇帝に謁見したのだろう。

1949年に毛沢東主席は天安門の上から中華人民共和国の建国宣言を行ったが、それは北京の中心がここにあるために当然の判断だったのだろう。北京が選ばれたという事には、国民党の拠点だったそれまでの南京を避けたとか、 諸説あるようだが、結果的に北京が選ばれ、この場所で建国宣言が行われた。その瞬間に天安門は全中国の中心にもなった訳だ。

中公新書の「北京」という本を読むまで知らなかったのは、その建国宣言時には現在の天安門広場はまだ無かったということ。私のイメージでは広い天安門広場を埋め尽くした群衆の前で、毛主席が建国を宣言したと思っていた。

また、その時点では天安門の前を通り、かつては軍事パレードが行われた北京のメインストリート、長安街も今のような広い通りではなかった。それで言えば、かつての明や清の都であった時点の北京には、この道は無かった。北京の市内は狭い胡同が規則正しく配置されていたが、現在のような広い道路はまだ無かった。北京を貫く大通りは存在せず、現在の二環路(第二環状高速)に地名の残る「門」の地名の場所に門があり、そこだけが外部との通路だったそうだ。

現在の長安街の元になった道は、戦前の日本の占領時代に軍事的な目的のために北京の外城に穴を開けて、北京を東西に貫くために造った新しい道路が、中華人民共和国建国後に整備され、現在の長安街ができたそうだ。

天安門広場を歩いて、通りや広場を見ていると日本との関係やマルコ・ポーロの時代まで想いが及ぶ。

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