復興門

by Shogo

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土曜日はそれまでの暖かい日から一転、霧のような曇り空の肌寒い日となった。この霧のような天気は黄砂ではなく、北京によくある、霧とも靄ともつかないものに覆われた薄暗い日だ。
復興門まで出かけた。復興門は天安門から西、金融街の南端に位置する。長安街と西二環路(第二環状高速)が交差する場所であり、地下鉄の一号線と二号線が交差する場所でもある。
上の写真の手前の高いビルは、中央教育テレビで、その向こう側が”PARKSON”というショッピング・センター。”PARKSON”は、新光天地、東方新天地に次ぐ、高級ショッピング・センターで一流ブランドが軒を並べる。
ただし、完成してかなり日にちが経つので先の2つのショッピング・センターに比べるとかなり古く、高級感がない。2000年に東方新天地、2007年に新光天地が完成すると、そちらに客が流れているだろう。
面白いのは、この3つのシッピング・センターが西から東へ長安街に沿って並んでいること。そして出来た順番は西から東だ。北京は経済の中心の朝陽区を中心に東への発展が著しいため、ショッピングの中心も東へ東へと移っているのかもしれない。
確かに私の周りでは、最近家を買ったという人はほとんどが市の東側で買っている。特に四環路と五環路との間の地域が多い。ここで住宅の開発が多いのだろう。
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西二環路の西側にはたくさんのアパートが見える。東側は中央教育テレビと”PARKSONがあり、その周辺をたくさんの金融機関のビルが取り巻いている。金融街はこの辺りから北側に広がっている。
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“PARKSON”
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“PARKSON”の西側入り口
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“PARKSON”の南側入り口
明朝、清朝の時代には、この復興門という地名の門はなかったそうだ。この時代には今の長安街の通りは存在しなく、今の二環路のある場所には北京の市のはずれの外城が築かれていた。ここに初めて門が作られたのは第二次世界大戦中の日本が北京を支配していた時代らしい。市の西に軍の駐屯地があった日本軍が、市を横断する道を作るために二環路に穴を開けて門を造ったそうだ。この時できたのが西の復興門と東の建国門だということだ。それまでは外城に穴を開けることは、市の気が抜けるとしてタブーだったそうだ。
その日本軍が作った道が、中華人民共和国建国後に整備されて、今の北京のメインストリート、長安街になったということだ。
以上はすべて先日読んだ「北京」という本の受け売り。

北京―皇都の歴史と空間 (中公新書 1908)

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  • 作者: 倉沢 進
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
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