「アレック・ソス 部屋についての部屋」展

by Shogo

東京都写真美術館「アレック・ソス 部屋についての部屋」展 に正月の間隙を縫って行ってきた。

好きな写真家の東京での展示として期待していったが、少し期待外れだった。それは、この展覧会の「部屋」という枠組みの脆弱さにあって、アレック・ソスの写真の責任ではない。

「アレック・ソス 部屋についての部屋」は、アレック・ソスの初期から最新作までを「部屋」という切り口で再構成することを試みた展覧会である。しかし、結論から言えば、本展は「部屋」というコンセプトの脆弱さ、そして各シリーズ間の有機的な繋がりを構築することに失敗しており、表層的な作品の羅列、言わばサンプリングに終始したという印象を拭えない。

まず問題となるのは、「部屋」という概念の曖昧さだ。確かに、ソスの作品には、室内空間を舞台にしたものや、何らかの空間性を感じさせるものが多い。しかし、それは彼の作品の一要素に過ぎず、その本質を捉えたものとは言い難い。「部屋」という言葉は、物理的な空間だけでなく、心理的な空間や、関係性のメタファーとしても解釈できるため、あまりにも広範で、焦点を絞りきれていない。その結果、本展は、ソスの作品群を統合する強力な軸を提示できず、散漫な印象を与えてしまっている。

さらに、本展の構成は、各シリーズから数点ずつを選び出し、並べただけに過ぎない。それぞれの「部屋」は、独立した展示空間として機能しておらず、作品同士の対話や、ストーリーの展開といったものはほとんど見られない。例えば、「Sleeping by the Mississippi」と「Niagara」は、どちらも旅をベースにしたシリーズだが、この2つを同じ空間に配置することで、どのような効果を狙ったのか、明確な意図が見えてこない。

また、「Dog Days, Bogotá」、「Broken Manual」、「Songbook」の3シリーズは、それぞれ異なるテーマ、異なる手法で制作されているが、それらを並列することで、何を示唆しようとしているのか、理解が難しい。各シリーズが持つ固有の文脈や、制作背景への配慮が欠けており、単に作品を「サンプリング」しただけの、表層的な展示に終始している。

このような構成の甘さは、キュレーションの欠如に起因するだろう。本来、展覧会とは、キュレーターが明確なコンセプトを打ち出し、それに従って作品を選定、配置することで、作家の表現世界を新たな視点で提示する場である。考えてみれば、大成功した昨年の葉山での展示に対抗するだけのために、捻り出したコンセプトということかもしれない。あるいは、葉山の「Gathered Leaves」展に比べて、各シリーズの作品数が少ないということも影響しているのかもしれない。これは、東京都写真美術館のスペースの問題でキュレーターの責任ではないのかもしれない。

それでも、第5の部屋に展示された「I Know How Furiously Your Heart is Beating」シリーズは、「部屋」というコンセプトとの親和性が高く、本展の中核を担いうる可能性を秘めていた。このシリーズは、他者との親密な関係性の中で生まれる「部屋」の姿を捉えており、単なる物理的な空間を超えた、より深い意味での「部屋」を提示している。しかし、このシリーズを起点として、他のシリーズとの関連性を探り、展覧会全体を再構築するような試みはなされていない。結果として、このシリーズが持つ可能性は十分に活かされず、他のシリーズとの間に断絶が生じて、埋没しているのは残念だ。これを、もう少し充実させるというキュレーションがあっても良かったかもしれない。

それでも、第六の部屋の世界初公開となる最新作「Advice for Young Artists」は初めて見る作品ということで見応えがあった。アメリカ各地の美術学校を舞台にしたこのシリーズは、教室やスタジオに置かれたモチーフ、そして若いアーティストたちの姿を通して、写真の原点、そしてアーティストとしての存在意義を問いかける。それは、作品に写り込むソス自身の姿だ。若いアーティストではないが、アーティストとして見られたいという意思を表しているのだろうか。今まで彼が作品に写り込むということはなかったから、何らかの意図を感じる。

すでに見たことのある作品が多いこともあり、不完全燃焼の展覧会であった。それでも、好きな写真家の作品を正月から見られてことは良かった。

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