正月で暇だしひどい二日酔いだったので散歩で歩き続けていたら、気になる風景があったので家に戻って、フィルムカメラとデジカメを持って出直した。なぜこの風景が心を惹くのか分からないが、写真を撮ってみたいと思った。今の今を記録すること、今のこの風景を所有すること、理由はいくつかあるのだろうが、昨日の自分の気持ちがこの風景に投影できたのかもしれない。
先日読んだ本によれば、風景が発見されたのは近代になって個人の内面が認識されるようになって、個人とは切り離された風景が初めて認識されるようになったということだ。風景を風景だけのものとして見ることは、近代以前の人間にはできなかったようだ。
しかし、昨日の朝、二日酔いの目で見たこの風景は、私の外にある風景ではなく、私の心の中にある風景のような気がした。これをデジカメで撮っても、私が投影された風景ではなく、単なるそこにある風景でしかないと思う。それをフィルムで撮ってこそ、自分の内面の景色になるような気がした。
デジカメでストレートに撮ることは、近代人の発見した客体としての風景なのだ。でもフィルムで撮った風景は私から分離できない、私のうちにある風景だと思える。それは先の理論からすると間違っているのかもしれないが、フィルムで撮れば私から切り離せない風景になるような気がしてならない。
そんな論理的なことではないのだが、デジタルの写りがコピー機のような外部環境の二次元の複製にしか見えないが、フィルムでは再現力もデジタルに及ばないが、何か別のものが写っているような感覚がある。デジタルより写らないということも、そう思う要因の一つだ。写らないからこそ目の前の風景が別のものに見えるのだ。
それから、もうひとつは、デジタルは写ったことがPCなどを通して見るだけなので、電子信号としてしか存在しないバーチャルな感じだが、フィルムには写真としての物質性があってよりリアルに感じられる。風景を自分の気持ちと結びつけて物質化したネガを手にすることができるのはまったく違う感覚だ。要は写真としてのリアリティが、写真という物質を手にできるかどうかの違いなのかもしれない。
昨日から酔っ払っているので自分で書いていても支離滅裂だが、酔っ払いが目の前の風景を見て不思議な気持ちになった。でも、デジタルカメラではその気分が写っていないということを言いたいだけなのだ。同時に撮ったフィルムを現像すると写っているものはきっと違っていると思う。