ゲルハルト・リヒター「写真論/絵画論」

by Shogo

気温がかなり下がって今朝は寒く感じた。最低気温は12度になったようだ。いよいよ冬が来たという感じがする。日の出も遅く散歩をしているとようやく明るくなってくる。

先 日、東京タワーが見える場所を通りかかったのだが、このような写真を撮る時に今まで何枚同じような写真が撮られたのだろうと考える。最近のニュースでスー パーコンピュータの「京」のニュースで「京」という単位は億の二乗で「0」が16個つくということを知ったが、東京タワーが完成してから写真に撮られた回 数は、その「京」を軽く超えているような気がする。あのニュースを見ていなければ、単に無数の写真と書いたところだ。ついでに書くとその時調べた最大の単 位は「無量大数」で「0」が68個つく。

この写真が、少し新しいのは今年の3月11日以降は東日本大震災のために塔の先が少し曲がっていることだ。あれ以降に撮られた写真も相当の数だろう。携帯にカメラがついて日本人のほとんどがカメラを持って歩くようになってからの数の伸びは半端ではないだろう。

リ ヒターの「写真論/絵画論」を読んだのだが、まるで現代美術のおさらいをしながら彼の歴史と作品を知るような感じだった。印象に残った彼の言葉の一つ は、「世界は使い古されたイメージの寄せ集め」ということ。スーザン・ソンタグは世界は写真に撮られるために存在するというようなことを言っていたが、写 真が発明されて多くの写真が作られた結果、まず写真を通して世界や現実を知ることは当然になっている。それは写真を直接にということではないが、メディア で無限に複製される画像によって疑似体験をまずしているということだ。結果として、その画像を通して世界や現実を再構成して自らの経験とすることによって 自分なりの世界や現実を作り上げている。だから現実に、あるものの前に立った時、それは「使い古されたイメージの寄せ集め」に見えるということだろう。

東 京タワーが見えた時、カメラを出したのだが、それは観光地で絵ハガキ通りの写真を撮って満足する時と同じ感じがしたのだが、頭で必要ないと思っても体は東 京タワーの写真を撮ってしまう。でも写真には作品とかということではなく、個人的な記録とか記憶の代用とかイメージや対象の収集ということも機能としてあ るので、秋の夕暮れに歩いた時の記録ということにしておこう。

You may also like

Leave a Comment

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください