渡部さとるさんと現代アートとしての写真

by Shogo
ロンドン

渡部さとるさんがご自身のブログ「写真生活」で「現代アートってなんだ?2013年に僕が気が付いたこと。」というエントリーをしばらく前にされていて、それを読んで以来、写真のことを考えているのだが、いつも通り考えがまとまらないし、自分でも同じ場所を堂々巡りしているだけだ。

渡部さとるさんは、ワークショップ2Bや「感度分の16」でも有名だが、北京時代に「旅するカメラ」のシリーズを読んだことがきっかけでファンになり、写真集もオリジナルプリントも持っている。個人的に好きな写真家の一人だ。その写真だけではなく、著書やブログでも現れる、そのお人柄が魅力の一つだ。

渡部さとるさんは最近、サンタフェの写真のレビューに参加したされたそうだが、その時の経験やそこからのご自分の中に起きた変化についてコメントされている。レビューとは作品を美術館のキュレイターとか画廊の人や批評家、ジャーナリストが評価してアドバイスしてくれる場のようで、多くの場合はそこから美術館に所蔵されたり画廊が扱い始めたりとビジネスにつながる場らしい。

日本では写真のレビューはまだ一般的ではないが海外では、このサンタフェとかフランスのアルルとか有名なものがいくつもあるらしい。事前審査があるものと無いものがあり、サンタフェは事前審査を経た100人の写真家が参加したそうだ。

渡部さんはこのレビューでの経験についてブログやfacebookなどで連続して書かれていて、私のfacebookのタイムラインでも話題になっている。渡部さんによれば「現代アート」とは「現在起きている問題を皆で共有するきっかけを作るための仕組み」だそうだ。

そのいくつかのエントリーやfacebookのコメントを読んで自らのことを考えてみると、「現在起きている問題」に何の関心も払わずに写真を撮っていることに気がつく。でも考えてみれば当たり前で、現代アートとしての写真を撮ったことは一度もないからだ。だから、渡部さんの現代アートについての発言からは最も遠い場所に立っている訳だが、そこからその方向を見てみると遠すぎて何も判別できないが、ちょっと感じたことを書こうとしたが何度もやめている。

では、何のために写真を撮るかというと、記念写真や観光の記録写真を除くと、一つはカメラの試写の写真、それからカメラの試写が始まりで、最近は作品もどきを作り始めているが作品と呼べるかどうか。

「現在起きている問題を皆で共有するきっかけを作るための仕組み」と言われても目の前に被写体がないと写真は撮れない。自分の考えや何かを表現するにしても、写真という形式が難しいのは、被写体と写真という形式が引きはがせないほど結びついて、写真を見ているのか、被写体を見ているのか分からなくなることだ。当然、写真として撮影時の画角、露出やピントで被写体を編集し、プリント時には濃度やコントラスト、彩度を作り込んで自分の写真にしていくわけだが、作品にするというのは難しくていつも悩んでしまう。

考えるきっかけの提示ということも当然、写真という形式に影響されている。つまり被写体があって始まることだから被写体がきっかけになるということは多くの場合は事実だ。ただ、それを表現するために被写体を写真の上で自分の意図が伝わるように編集して見せるという技術が重要になるのだが、ここもまた素人には難しい。

マクルーハンではないがメディアはメッセージだ。写真というメディアは現実社会を引用してメッセージを伝えようとはするが、写真にしただけで、これは現実の被写体の記号ですよということを伝えているだけだの気がする。作者が込めようとした意図は、写真というメディアの持つメッセージによってかき消されてしまっていることが多い。このあたりが、「コードのないメッセージ」ということだろうか。

ソンタグが言ったのは、「世界は写真に撮られるために存在する」だが、写真は世界の複製として単なる記号としてしか他人には理解されないことが多く、自分のような素人の撮る写真はなおさらそうだ。なので写真とは、きっかけの提示とか、世界の見方などと考えても、被写体という巨大な存在をどう乗り越えるか見当もつかず、写真という壁の前に立ちつくしてしまう。もう少し考えないと、写真とは何か見当もつかないので、「問題の共有のきっかけ」という言葉に混乱してしまっている。

もう少し考えて、少しでも進んだらこの問題について書いてみたいと思う。

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