撮る写真、撮ってしまう写真

by Shogo

花冷えという言葉がぴったりの寒さだ。これでは花見も寒いだろう。少し飲んで桜の咲く場所を通りかかったのでカメラを取り出した。桜とか紅葉とか、花鳥風月は撮らないようにしているのに、その場に行くとカメラに手が伸びる。そういうものは写真を撮らせてしまう力だあるのだろう。

裏返して言えば、モノの力が強いのでどう撮っても同じような写真しかならないということだ。表現の関与する余地が少ないから撮らない方が良いと言われるが、自分はアーティストでもなければ表現者でもないので、カメラを出して思う存分、桜の写真を撮る。それからアルコールの力がこれに拍車をかける。

桜がなぜこれほど日本人に愛されるのかは分からないが、アメリカ人も中国人も桜の季節には花見に出かける。違うのは木の下で酒を飲まないだけだ。桜が宴会に結びついているのは日本だけだが、同じように死のイメージとつながるのも日本だけだ。

西行の「花の下にて・・・」の歌や梶井基次郎の「桜の木の下には死体が・・・」というように死のイメージと結びつけることが多い。暗い冬から春になって満開に咲く桜は、生の喜びに満ちているが、散る時はすぐに来て、満開の桜の花びらが風に舞って飛び散っていく。この散り際の大げささが死のイメージであり、普段は忘れている時間の経過を目の前に冷酷に見せてくれる。砂時計の砂が落ちるように、散る花弁は過ぎ去ってゆく時間そのものである。過ぎ去る時間をはっきり見せてくれることが、日本人の無常観を触発するのだろう。なので多くの表現者が桜と死の関係を様々に作り上げた。

そんなことを考えずに写真を撮ったり、酒を飲んだりしている方がずっと楽しそうだし、現にほとんどの人が桜のそんな側面を楽しんでいる。それはそれで健全なことだ。今日の日曜日はあちこちでそんな景色が見られるだろう。我が家もカメラを持って代々木公園とか和田堀給水所にでも行ってみようか。

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