犬鍋とグローバル・スタンダード

by Shogo



犬の鍋

街で見かけた看板

故宮の東側、東華門から王府井よりの観光客がよく通る通りで見かけた看板に、犬の鍋のメニューが。餃子や麺は普通だが犬の鍋は、中国以外からの観光客にはちょっと抵抗があるだろう。特に英語で書かれているdumplingやcoffee,western foodに引かれて入った外国人は、私も良くするように隣のテーブルを指差して注文して、それが犬鍋で後で犬と分かったら訴訟モノだ。韓国でもまだ食べるようだが、中国でもまだまだ食べるようだ。日本も戦後の食糧難の時代には食べたと聞いたことがあるが、多分もう食べる人はいないだろう。

知人に聞くと、道端の野良犬ではなく食用に飼育されている犬とのことだが、でもそう言えば野良犬はまったく見かけない。時々、野良猫は見かけるが。

何より驚くのは、地元の人しかいかないような胡同の奥ではなく、観光客の集まるエリアでも犬鍋が食べられていることだった。オリンピックまでに止めないと世界中の愛犬家から非難を受けるので早くメニューを変えた方が良いのではと考えた。

でもこれは余計なお世話で、世界中には様々な文化・風習があるわけで、カタツムリを食べたり、鰐を食べたり、牛を食べなかったり、豚を食べなかったり、貝を食べなかったり、それはその民族や宗教の習慣だ。違いがあることを認めて尊重することから友好が始まる。

どこかの国のようにグローバル・スタンダードというアメリカのやり方を金科玉条のように受けいれる国の人から見たら、犬を食べてどこが悪いと頑張ってもらいたいくらいだ。

経営においてもいつの頃から、日本はグローバル・スタンダードだからと、会社は株主のものだということが定着したが、数秒しか株を保有しない株主もいるのに株主がすべてというのはどうなのだろう。日本の経済成長の原動力は最末端の従業員まで会社のためにと頑張ったからで、グローバル・スタンダードだからと従業員より株主を優先しなければいけないとなるのはどうなのだろう。株主がいるから資本があって会社があるのは事実だが、従業員が会社のために日々、価値を生み出すのだから。細かいところに配慮がされている製品やきめの細かい人的なサービスはモチベーションの高い従業員がいるからありえる訳で、それがなければアメリカのようにいい加減な製品(例外もある)や無愛想なカスタマーサービスばかりになってしまう。グローバル・スタンダードにしなければいけないという理由はなかった。キヤノンの御手洗会長の言うように日本型経営の優れた点はいまでも有効のはずだ。

大事なものは残しながら、国際会計基準や礼儀を受け入れるというように出来ないのだろうか。日本にも誇れる労働観や習慣がある。多分、どの国にもある。交流や友好のための礼儀は取り入れて、大事なものは残すべきだ。

だから、犬鍋も中国の食習慣と胸を張って説明し、食用に飼育される犬の説明をすればよいのだと思う。グローバル・スタンダードに負けてはいけないのだ。

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