写大ギャラリーに行ってきた。この常に良質な作品を展示するギャラリーは、家から自転車で15分ほどの距離。時間がある日は、家から写真を撮りながら歩いて行くこともある。
今回見に行ったのは古屋誠一さんの写真展。古屋誠一写真展「第二章 母 1981.11-1985.10」。古屋さんの写真展の続きだ。だが、この展示を見に行くと言うよりも時間があって天気の良い日にはよく行く場所だからだ。だから、例え既に見ている写真展であっても散歩がてら行くことも多い。写大ギャラリーが展示する作品が有名な所蔵作品が多く絶対にクオリティーが高いと言うことがあるし、人も少なく、ゆっくりと写真を見るのに適している場所だからだ。そのゆっくりと見られると思う理由の1つは、比較的会場内の照明が落とされていて、落ち着いた雰囲気があるからなのかもしれない。
古屋誠一さんの亡くなった夫人のクリスチーネさんを撮った写真はもうすでに、あちらからこちらで見ている。今まで見たことのない作品も多く、それだけ膨大なクリスチーネさんの写真があるのだろう。
写真は時期によってコントラストが低かったり高かったりして、一定ではない。時間をかけて作品が作られているので、その時期のプリントの方法が変わっていることがあるようだ。だが、どれも美しいプリントで、その階調を見飽きることはない。
ただ、古屋さんのクリスチーネさんの写真については、写真を写真として見るのが私には難しい。それは撮影者の古屋さんと被写体のクリスチーネさんに起こる悲劇的な出来事を頭から追い払うことができないからだ。つまり、作品としての写真のプリント、それだけを客観的に独立して鑑賞することができない。どの写真を見ても、その悲劇が追いかけてくる。作品としての情報を見ていても、彼らの運命についての知識から来る情報が上書きしてしまうような感覚だ。
これは写真においては、特にポートレートの場合には、多い。被写体が誰かと言うことに重心が置かれ、その写真の作品としてのプリントや表現が置いてけぼりにされる。
文学においては、バルトが作者の死で論じたように、ある程度は作者から離れて書かれているテキスト解釈することを主張されてきた。しかし、文学の場合には、テキストと言う限られた入力情報により、作品のテキストを読者が解釈することができる余地は大きいのかもしれない。
しかしながら、写真の場合には、目から入る情報は膨大で鑑賞者に解釈が任される余地は随分と少ない。被写体の情報が周辺の情報と入り混じり、作品を作品として切り離して見ることが難しいのだ。特に、クリスチーネさんの写真は、撮影者としての古屋さんの情報と一体となっている。文学におけるテキスト論のように、写真作品を周辺の情報から切り離して見る事はなかなか難しい。古屋さんのクリスティーヌさんの写真について、いつもそのことを感じる。
クリスチーネさんの美しさの背後にある、悲劇を知っているが故の表情の悲しさを読み取ろうとするからなのかもしれない。展示されていなかった、以前見た作品で、室内で美しい光の中で捉えられてクリスティーネさんの写真は、被写体としての美しさだけではなく、淡い光を捉えた写真としての美しさがあった。だが、そのように、美しい光をとらえた写真であっても、そこに写っている悲劇的な出来事の主人公の存在感の前には、その美しい光の意味は相対的に下がってしまい、作品としての写真の中では、その美しい光の表現は見る影もなくなってしまう。
写真は対象物がなければ撮ることができないのは事実である。だが、対象物を正しく伝えることだけが写真でない事も明らかである。しかしながら、被写体は大きな意味と情報を私たちに伝え、作品としての写真はその後ろのほうに霞んでしまうかのようだ。だから、できるだけ意味のない対象物を撮りたいと思って写真を撮るようにしている。
被写体の意味を感じない写真。それもまた難しい。できるだけ光と影の造形だけで写真を撮ろうとしていたこともあった。その時は白岡順さんの講座では、花鳥風月に過ぎないと言う大きな批判を受けたこともあった。それでも、そういう写真をいつも撮りたいと思っている。
古屋さんの写真展を見た後で、被写体の意味について考えながら帰ってくた。
話は変わるが、さて、今日はいよいよ日本代表の初戦。メッシのアルゼンチン代表は、なんとサウジアラビアに逆転負けした。同じようなことが、ドイツ戦で起きないか。