カタカナ英語と写真

by Shogo

ようやく朝晩が涼しくてエアコンの要らない季節になった。昼間の気温はまだ30度を超え日差しも厳しいものの、夜は涼しくて気持ちがよくなった。 こんな季節はどこにでもあるのだろうが、気のせいか今はすぐに夏になったり冬になったりして、ちょうどよい季節は短くなっている気がする。

先日、先生に見ていただいた写真は、花鳥風月が多く含まれるという指摘を受けて、撮るものを変えなければいけないと思っている。自分でも最初からそうは思っていたが、枚数を増やすために似たような感じの花鳥風月も含めたのだが、思った通りそういう指摘を受けることとなった。

花鳥風月が意味がないのは理解している。それは、すでに誰かによって作られた、新しい表現ではないからだ。

だが、いざ写真を撮ろうとするとどうも花鳥風月的なものを、撮ってはいけないと思いつつも撮ってしまう。これは、今まで見た写真や絵画のイメージが体に染みついており、それと同じようなものを撮ってしまうからだと思う。花鳥風月は典型的で似たようなものがたくさんあり、新しい意味を提供しないからだと思われる。だからこそ、撮りたくなってしまう。誰も見たことのない写真を自ら作り上げることは凡才には難しい。

同じようなことで思うのは、英語の発音だ。カタカナ英語が染みつくとそれにとらわれて正しい英語の発音をするのは難しい。人間の脳はすばらしくよくできているから、聞く時ですら、そのカタカナの発音のように聞こえるようになる。これを矯正するのは難しくて、なかなかカタカナ英語からは抜け出せない。同じように写真も今まで見た写真はすべて忘れて、常に新しい視点を心がけならないのだろうが、これもカタカナ英語からの脱出と同じように難しい。


先日お会いしたインドの方は、すばらしいビジネスマンだが、英語の発音は今まで知っていたどのインド人とも違うアクセントがあり、はじめはわかり辛く感じたが、だんだん慣れてくると気にはならなくなってきた。それは、発音は別にして語彙や話す内容は尊敬に値するし、何より表情や態度に現れる、人とコミュニケーションしようとする意思が明確で、それが最も重要なことだ感じた。なので、できればカタカナ英語でない方が良いが、それよりも、内容や語彙を磨き、より人間性を高め、態度や表情を使うことがコミュニケーションにとっては重要のようだ。

これを写真に当てはめると、撮っている対象は花鳥風月でもかまわないが、撮り方が一般的でなく新しければ良いのかと思うが、それがどういう撮り方なのかよく分からない。ぐるっと回って出発点に戻って、花鳥風月的写真とカタカナ英語の話は結局落ちないようだ。カタカナ英語をカバーするような態度や表情などの別のものを写真に足せばよいのだが、それは何だろう。

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