渋谷パルコまで後、牛腸茂雄の写真展を見に行った。渋谷駅から公園通りの坂を上っていくと、様々な遠い昔のことがよみがえってくる。
公園通りに、よく出かけていたのは、1970年代中頃の大学時代から始まって、特に会社員になって、原宿に引越してからだ。それは結婚して原宿を後にするまでの10年ほどだ。
10歳年上の牛腸茂雄の略歴を見ると1965年に桑沢デザイン研究所に入学して、68年に卒業となっている。だから、公園通りの坂ですれ違った事はなかったのだろう。
好きな写真家としては、牛腸茂雄は上位に入る。有名な写真家だから、牛腸茂雄の作品はあちらこちらで見ることが多い。だが、今回の展示のように100点もまとまって展示されているのは初めて見た。
ストリートスナップやポートレートの中には今まで見たイメージも数多くあったが、時代ごとに展示されて、まとめて見ることができるのは良い経験だった。中でも以前よりよく見かけた「日々」に収蔵された写真はどれも好きなものばかりだ。
「日々」とは別のエリアに掲げられていた彼の言葉のを感じる感覚がここにも現れているように思える。心の中にある、写真には映されて何か特定できない気配のようなものを感じるのだ。
私はこの現実と似姿な「もう一つの現実としての写真」を、<日常性>という取り止めもなくあいまいな世界の深みへと引きずり込みたいと思うのだが..。
牛腸茂雄の言葉 日本カメラ1980年2月口絵
それと、彼の撮ったポートレートの写真には、何か撮影相手とのコミュニケーションの様子が想像される。何をしゃべっているのかわからないが、たくさんの言葉が交わされている、そんな印象だ。特に子供を撮った写真については、余計そう感じ。子供を見る愛情のようなものが感じられるからだ。だからこそ、子供の自然の表情が写真の中に捉えられている。作品のタイトルも「Self and Others」となっており、対象をただ撮るのではなく、相手との関係を撮そうとしたのではないだろうか。
だが、その一方で、彼の世界を見る目は、コミュニケーションを取ろうとしつつも、どこか遠くから離れて見ているようにも見える。彼の言葉にある「<日常性>という取り止めもなくあいまいな世界の深みへと引きずり込みたいと思う」のように、写真を通して、彼のイメージと現実を統合し用途したのだろうか。そんな彼の資質を、彼の肉体的な障がいを理由にしてしまうのは、あまりにも安易だ。それ以上の、彼の望みのようなものを感じる。
今回初めて見たのはカラーの写真だ。渋谷や新宿の雑踏の写真は、写っている人の服や景色を除けば、最近撮られたと言っても良いようなものだ。だが、牛腸茂雄のイメージができてしまっている私からすると、そこからかなりはみ出してしまう。また、それ以上に、対象との距離感が少し違っているのだろう。
子供の頃の学校の通信簿やノートを見るにつけ、非常に几帳面で頭の良い少年だったことがよくわかる。3歳で肉体的な障がいを負ってしまったために、その後の人生も楽でない事は容易に想像できる。しかし、彼の書いた文字に現れるように、そこには素直な心が育っていたようだ。
会場には、彼のカメラとして、二眼のミノルタAutocodeが飾られ、蔵書の一部も展示されていた。吉本隆明や河合隼雄の著作と並んで、「星の王子さま」や「モモ」もあった。
ほぼ日の主催する牛腸茂雄の写真展は、パルコ劇場と同じフロアにあり、そばに安部公房の戯曲の上演が告知されていた。パルコ劇場になる前の渋谷西武劇場で安部公房スタジオの公演をよく見ていたことを思い出す。安部公房スタジオの友の会の会員だったので、山の手教会の地下にあった安部公房スタジオの事務所にチケットを受け取りに行っていたことも思い出した。
牛腸茂雄は1983年に亡くなっている。それ以来、安部公房スタジオの中の公園通りの風景は大きく変わってしまっていて、40年の歳月を感じる。公園通りで、すれ違いはしないでも、1970年代半ばからは、彼とは、渋谷周辺の同じ空気を吸っていたような気がしてくる。どこかで安部公房の劇を見たいと思って帰ってきた。