アレック・ソス写真展「Gathered Leaves」

by Shogo

夏休み中のTo Doリストの上位に入っていたアレック・ソスの写真展にようやく行く。葉山まで行かなければいけないので、出かけるまで、車か電車で悩んだが、結局電車で行った。グリーン車を奮発したので、片道で約1時間、合計で2時間ゆっくりと本を読む時間もできた。

アレック・ソスは、今のアメリカを代表する写真家であり、よく知られているように、ロードムービーのようにアメリカの中西部を車で走りまわり、ドキュメンタリーのように構成された写真を撮っている。

だが、行き当たりばったりで、旅行先で出会った偶然の被写体を撮るのではなく、撮影旅行の最初に、撮るとるイメージを決めてそのイメージを探して撮影を行っていると言う。普通の写真家のように、あてもなく彷徨歩いてイメージを見つけると言うことではない。前もって構成がきっちりと決まっているようだ。

よく言われる喩えで、写真は鏡か、窓かと言う議論があるが、事前にイメージを決めているアレック・ソスの場合には、アメリカ中西部などを写真を通して見ているのではなく、アメリカの中西部を鏡として自分の姿を見ている。

今回の、神奈川県立近代美術館葉山での展示は、本人の監修と、作品の選択で行われており、写真家が見て欲しい形で、壁の色まで含めて展示されている。写真展のタイトルは、「Gathered Leaves」。ホイットマンの詩集『草の葉(Leaves of Grass)』から取られてものだそうだ。

展示は、彼の代表的なシリーズから、5つが選ばれている。見たかったシリーズが含まれていなかったのが少し残念だ。展示されているのは、「Sleeping by the Mississippi」、「NIAGARA」、「Broken Manual」、「Songbook」、そして最新の「A Pound of Pictures」。展示の最後は、ドキュメンタリー映画『Somewhere to Disappear』(2010)を上映。撮影するソスの旅を追ったドキュメンタリー映画だ。

彼が有名になったシリーズの「Sleeping by the Mississippi」は、ミシシッピー川の流域を車で旅行しながら撮影した作品群だ。ロードムービーのように、多くの人物や風景などが登場する。この写真は、イメージに含まれていないストーリーを語っているように感じられる。

さらに特徴的なのは、いくつかの作品には写真や絵画などのイメージが映しこまれ、重層的にさらに別のストーリーを語っているように見える。そして、作品には地名や登場人物の名前がつけられており、アメリカの中西部のミシシッピー川の流域をイメージさせるためのシンボルとして機能している。それは彼が語るストーリーが、単なるイマジネーションではなく現実に存在するアメリカの中西部を意識させる。

次のシリーズの「NIAGARA」も同様で、ナイアガラと言う世界的に有名な観光地であると同時に自殺の名所としても知られる場所を重層的に意識させる。ある意味で、けばけばしい観光地であるナイアガラに集まる庶民的なアメリカ人のポートレートと安宿のモーテルのイメージを組み合わせて、何か物悲しい雰囲気のナイアガラの姿を見せてくれる。

このシリーズを見るアメリカは、ニューヨークやロサンゼルスと言う、華々しい雰囲気ではなく、リアルなアメリカの姿だ。その意味で、このシリーズは、ロバート・フランクの「The Americans」を彷彿とさせる。

「Songbook」では、陽気なアメリカの姿を見せているが、楽しそうに踊る老人の姿に表れているように、地域の衰退や死のイメージが、その裏にはある。ここでも、やはりすべての写真はメメント・モリであると言うことを思い出させてくれる。その意味でもアレック・ソスは、我々の住む世界の全てが、緩やかな下降状態にあると言うことを正面から見続けている写真家だと感じる。

彼の作品は、その風景や人物あるいはラブレターのイメージを撮影することによって、彼自身の言葉を紡いでいる。その意味で目の前にあるものを単純に撮った写真ではなく、計算によって作られたな多層的な表現となっている。

それは、「Broken Manual」でも同様で、アメリカの繁栄に背を向けるように、隠遁する人たちの姿と住まいを見せることにより、アメリカと言う物質的に恵まれた国の背後にある暗い影の部分を掬い取る。作品に定着されているイメージや人物の表情や事物から、アレックス・ソスが語りたい社会の姿が現れる。

2018年から2021年にかけて撮られたシリーズの「A Pound of Pictures」は、これまでのシリーズと同様に様々なイメージが現れる。他のシリーズに比べると一見は何の脈絡がない。トランプ政権やパンデミックの最中の混乱したイメージなんだろうか。

もともとはリンカーンの葬列列車の跡を辿るシリーズとして企画したらしいが、実際には写真についての写真と言う雰囲気だ。タイトルも「1ポンドの写真」。彼が、買い取った古い他人の家族写真から来ている。その、他人の写真も展示に含まれている。他にも、写真がたくさん現れる。無数の写真がモーテルの部屋に広げられたイメージや、そういう写真を売っているのであろう人の写真もあった。

当然それらの古い家族写真を撮った人も、撮られた人も既に死んだ人だ。「1ポンドの写真」とは、死の集積ということも意味しているように感じた。

今まで何度も雑誌やネットで見てきたアレック・ソスの写真を、まとめて、ある程度の大きさのプリントで見ることができたのは大変良かった。大きな写真で見ることで初めて気がついたことがたくさんあった。ネットや雑誌で、チラッと見ただけではわからないような様々なイメージが写し込まれている。それは作家が意図したり、結果的にそうなったこともあるだろう。それが写真だ。

私だけが気がついていなかったのかもしれないが、有名な雪の中のガソリンスタンドの写真をずっと見ていると、その背後にある森は、単に森ではなく墓地であることに気がついた。写真全体でも薄暮のガソリンスタンドが寂しげな雰囲気を漂わせている。だが、実際にはその背後にある墓地が私たちにメメントモリを語り掛けているようだ。

展示の最後の映画もよかった。「Broken Manual」の撮影の様子を撮った『Somewhere to Disappear』。ここでは、まさにアレック・ソスの撮影の雰囲気を伝えてくれる。ハンドルに貼られた撮影すべきイメージのメモ、撮影対象を訪ねて行って撮影するまでのやりとり、様々な風景の中を走り回る車。大型カメラを担いで雪の中や山の中に入っていくソスの姿。まさに想像していたような写真家の撮影のスタイルだ。そして撮影対象者との非常に心こもった丁寧なやりとり、あるいは素朴なソスの態度。57分の映画が短く感じた。

映画は「Broken Manual」の撮影を追う。メインスロリームのアメリカから逃れて生活する人の姿や、それを丁寧に撮影してゆくソス。この映画の中で、ソスは自分の洞窟を持ちたい言うことを語っていた。つまり彼自身が、社会から逃れて逃避したいと言う考えを持っていると言うことなのだろう。だからこそ、彼自身が、アメリカの明るい部分だけではなく影の部分も含んだ写真を撮ることができる。

私たちは、彼の写真の中に、自分の人生における、孤独、逃走、葛藤、死という影の部分と自由、夢、愛、絆、平穏といった明の部分を同時に見ることができるように思える。人生における考えるべきことを写真を通じて見せてくれる写真家がソスだ。

写真展の後は、葉山や逗子で時間を潰して、これもまた昔の出来事を考えた。

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