このところ忙しくてギャラリー巡りができていない。新宿も総武線沿線もご無沙汰だ。時間があまりなくても、銀座にあるニコンサロンなら、ちょっと時間を見つけて行くのに便利な場所だ。 今週は、石川直樹の展示だということで時間を作ってみてきた。
震災の写真展は結構あるが、どうも見に行く気がしない。リアルタイムで動画を見て、その後もいやというほど震災の爪痕を見せられているせいだ。しかも、その映像はすべて、死体などが入らないように検閲された物で実際の現地の地獄絵図とはほど遠いものだと想像される。現地にいた人しか実際は知らないのだ。ここが写真の怖いところで、事実は消毒され、より分けられ、それから並べられることで、新しい事実が作られる。
だから、震災の写真展には基本的には行かない。後から現地に行って写真を撮って、作品だという神経が許せない。すでに現時でたくさんの作品がたくさんの当事者によって作られた。それに何か加えるほど、あの災害に対して新しい見方を提示する人がいるとも思えない。
それでも行ったのは、石川直樹だからだ。写真家でもあるが冒険家という言い方もできる人だが、彼が自分の足と目で災害を撮った写真には少しだけ興味があった。なぜなら石川直樹は、自分の足で歩く人だからだ。以前、都写美のトークショーで彼が喋っているのを見に行ったが、何というか地面に足をつけて遠くを見ているような印象のある青年だ。
写真は、もう何度見たか分からないような壊れた街の写真なのだが、それに並べて同じ場所が徐々に復興する様子が撮られていた。時間をおいて三回行って撮影したそうだ。直後の家の残骸しか見えない街が、家のがれきが片つけられ、土台だけが見えるようになって、最後には道が復旧して車が走っていた。つまり震災後の被害ではなく、その後の復旧の様子なのだ。いくつかの場所について三枚ずつ撮られた写真を何度も見比べてみた。最初の地震直後のがれきの山には雪が積り、最後の写真には雑草が生えている。
写真展のタイトルは、震災の後にも自然は変わらないということを言っているということだろうが、自分には、その自然に人間も含まれて、がれきを片つけていることも言っているような気がした。
説明のパネルの最後の、「世界はそこに在り続ける。たとえ自分が死んでも世界はそこに在る。言葉が追いつけない涯ての風景を留められるのは、写真しかない」 を読んでググっと来た。
でも一つだけ気になったのは同じ場所のフレーミングが微妙に違うこと。撮った時には同じように並べて見る意図は無かったのかも知れない。並べて見せるなら、前の写真を持っていって同じように撮ることもできたはずだが。
雨が上がって少し温度が上がって暖かい。曇ってはいるが散歩には問題なさそうだ。散歩が終ったら出かけて戻りは遅くなる。